昭和44年10月6日 朝の御理解★
御教えを聴聞する。まあ、御理解を頂くということですけれど。どこで頂くかと、もとろん誰でも耳をもって聞くわけですけれども、その、耳をもって聞くというのではなくてですね。生命をもって頂く。ね。全身全霊が頂くと。という頂き方にならなければならない。そういう頂き方を私は、「白紙になって頂く」ということだ、というふうに思うんです。それはどういうことかというと。
例えば、歌舞伎役者の芸談なんかを聞きますと、分かったことが、いくつくらもありますけれども。例えば、新作ものなんかに取り組みますと、その台詞を覚えるというだけでもたいへんらしいですね。一人が間違えたら、皆が崩れてしまうんですからね。台詞を覚えるということだけでも、その、あれはですね、これは皆さん体験があられると思うですけども、兵隊にまいりますと、もうとにかく記憶力のない者は、ダメですよね。もう、短時間の間に、長いいろんな勅令なんかを暗記しなければなりません。
( ? )覚えることないです。それこそ、ね、もう生命が覚えてしまうという感じです。皆、あれだけの兵隊が覚えるんですからね。
例えば、天津祝詞と大祓なんかを奏上。もう一年かかったっちゃ、三年かかったっちゃ覚えん人があります。毎日参って来よってから。もうほんとにですね、いかに覚えようと思っていないかということが分かります。もう毎日覚えようと思てから、皆、ちゃんと一緒に、それを覚えようとは思うとらんけれども、実際は、生命が覚えようとまで思っていないわけです。ね。
あの、ここに参ってみえます、最後に岸和田さんて方ですね。あちらの奥さんが、善導寺にお参りさして頂いてから、(祝詞どんを?)始めて、あちらで買うてみえられて、とにかく一晩で、天津祝詞と大祓を覚えたち言う。何回も、ご飯炊く時じゃろうが、お風呂を焚く時じゃろうが、もうずーっと一生懸命、ね。それこそ、生命が覚え込むんですね。ね。
そのようにして、例えば、んなら覚えたですよ。例えば、祝詞なら祝詞。ね。あの歌舞伎役者の方で言うならば、台詞なら台詞をですね、一遍忘れることが、いよいよ舞台上に出て、素晴らしい、それこそ実感の伴った台詞が言えれるようになる、と言われております。ね。
私は、もう白紙というのは、そういうことだと思うですね。白紙になる。ね。今まで覚えておったものを忘れてしまう。ね。「覚える」言わば御理解を聴聞すると。御理解を頂くということが、もう、それこそ一生懸命、その一生懸命で頂いた、その御教えを今度は、忘れることに一生懸命努める。努めると言うとちょっと、声があるかもしれませんけれども、やはり忘れる事の為にですね、それを、いわゆる他の事をしたりして、その、忘れる事に、やはり努めるということですけれど。ね。
ところがそれがその、生命が覚えておるものですからね。いよいよという時に、自由自在に出てくるわけですね。私は、この御教えと言うのは、そうでなからなきゃならんと思ですね。ほんとは。ね。もう自分の全身全霊に染み込んでしまってる。叩き込んでしまっておる。だから、自分の動きそのものが、言わば教えになっておると。ね。
昨日の朝の御理解に★『無心』ということを頂きましたですね。やはり「白紙」のことだと思います。ね。それにはやはり、「苦心」が要る。ね。それこそ一生懸命の聴聞が必要、要る。ね。そしてそれを、教えを忘れるほどしの精進というんでしょうかね。そこにも精進される。しかし、もうすでに御教えは、わが生命の中に染み込んでおる。ですから、それが、言うことすることがです、無心にしておることの中に、「なるほど金光様の信心」というものが現われてくる。
私どもは、あまりに頭の中に覚え、覚え込んでおる。頭の中でだけ、ね。耳でだけで聞いておる。だから、ほんとうは、ここはこうすることが、ほんなことだけれども、ほんなことせん。これはこうすることがほんとうだけれども、ほんなことをせん。なるほどおかげを受けられんことが分かります。
無心にさせて頂いておることがです、もうお道の信心に適うておる生き方。それはちょうど、名優が長い長い台詞を暗記することに一生懸命。御理解に聴聞することに一生懸命。台詞を覚えることに一生懸命。そして、忘れることに、それを努める。
けれども、いよいよ舞台に出て、演技をする時には、ね。それが口から、次々とその台詞が出てくる。「さあ、( ? )どげん言わんなんじゃったじゃろうか」のこと考えることがない。
頭に覚え込んでおこうと、これはほんとにそうですよ。例えばお話なんかでもそうですね。「今日はこんなお話をしよう」と、例えば、紙なら紙に書いて、こういう話をしようと思ておると、それをそうと頭の中に暗記しておって、その通り言おうと思うたら、あの、たいへんに難しいことです。ね。
例えば、んなら一応、そういう、こういうこと話そうということを一応書いてしもといて、それを、言わば忘れてしもうておる。それが口から出てくるというような、ならそこに、何て言うんですか、聞く者も、またはお話をする者も、実感的なお話が出てくるようなもんです。ね。
私達はもう、あの、大祓でも祝詞類でもですね、または、祖先賛詞奏上する時でも、あそこに座って、ころっと忘れてしもうとることがあるです。それからというて、拍手打って、さあ言おうとすると、もうやっぱり、間違いなくと、そのよう。拝詞なんかは、とくにそれを私は、感じる時があるんですけれども。
「ええっと、あそこどげんじゃったか」と思うても、どげんしても思い出さない。けれども、実際に上げさせて頂くと、やっぱスーッと出てくる。だから有り難い。言わば、んな私が奏上さして頂けると。ね。
信心を頂かしてもらうと、ということは、お道の信心ではまず、教えを頂くと。御理解を聴聞するということから始めと思うんです。ね。始めの間はそれを覚えようと、一生懸命、先生の言われる、お話されることを一から十まで、聞き逃すまいとして、一生懸命で頂く。そしてそれを、帰ってそれをお話をするでも、先生のお話された通りにお話できる。それも有り難い。そら一生懸命頂いておるから、そうなんです。
けれども、だんだんだんだんおかげを頂いてまいりましてですよ。もう覚えようというのではない、その心を一生懸命頂こうとしておる。いわゆる、耳で聴聞するのではない、全身全霊が頂いておる。ね。
まあ、「今日の御理解は、ええっとどんなことじゃったかの」とこう、例えば思うような事もあるけれども、実際、言うておること行うておることが、その、今日頂いた御教えに適うておる。まあ、難しいことですけれども、しかし確かに、そうだと思うんです。
覚えてが、いかに覚えておりましても、こうすることがほんとうだ、ということが分かっておりましても、こうしなかったら、全然それはお役に立ちませんからね。人にお話をすることなら、よくできる。覚えておることできるけれども、お話だけが上手であってもダメなんです。それを私どもが、全身全霊で頂かしてもらう、ひとつ本気での稽古をさしてもろうて、おかげを頂く。それが忘れられる。
私は、白紙になる、今日はここが「白紙」だとこう頂いて、それを思うんです。白紙になる。いわゆる無心になる。それまでにはただしね、私は、苦心が必要である。苦心しなければ覚えられることではない。「これだけのことを何時間で覚えれ」と、例えば兵隊なんかの時に言われても、と思うけれども、本気で覚えようと思うから覚えるんです。ね。しかも、その覚えたことをです、忘れる工夫と言うか、忘れる精進をさしてもらうくらいなところからです、ね。言わば、舞台に出て実感をそのままに、台詞を言うことができる。ね。
これはもちろん名優。名優が言うておることであり、名優の、言うなら、体験なんです。ですから、なら、駆け出しの俳優がですね、それを、んなら、そげんしようとしたところで、それはできますまい。やはりそこには、苦心に苦心が重ねられなければなりませんけれども、なら今日の御教えでもそうです。
金光大神の御教えが身に付いてしまう。全身全霊が、言わば教祖の御教えをこれに、吸収してしまう。ね。それは二年三年の信心でできようと思われませんけれども、皆さんがこうやって、一生懸命御理解を聴聞される。一生懸命に、頭の中にそれを置こうと努められる。ね。いわゆる、金光大神の御教えというものを一通りマスターする。覚えてしまう。ね。
そこから、私はですね、いわゆる「白紙になる稽古」忘れてしまう稽古。ね。そしてそれを全身全霊が頂いておるか、頂いていないかを確かめながらです、ね。自分の無心に言うておること、無心にしておることがです、道に適うておるかということを確かめてです、ね。我、金光大神の御教えを頂いておる、いわゆる、お道の信奉者である、ということが、まあ言えると思うのです。ね。
いかに、言葉でには出らなくてもです、もう、しておること、ね。いわゆる金光様の信心の匂いがするというか、まあ、( ? )と言や、金光様のことばっかり。全てを教えに当てはめて、ね、お話をする。その時代に、信心の匂いがするということを申します。匂いがぷんぷん。だから、信心が無い人達から、信心臭いというふうに、まあ敬遠されるわけです。ね。
けども、そうして、一応、これにそれが入ってしまうとです、今度は、例えば言うことすることの中に、何とはなしに、それこそ信心の薫が漂うようになる。信心しておるやら、しておらんやら分からんようになる。けれども、何とはなしに、もうすでに信心の薫である。言うなら、徳の薫である。なんとも仰らない。仰らないけれども、側におっただけでも心が豊かになるといったような、大徳を受けられた方達がありますよね。
もう全身全霊で教えを受け止めておられる。ね。だから、お話をしなさいと言うても、むしろお話をおできになられないような状態であると思うんです。ですから、たいへんな難しいことですからね、今日私がそんなに言うたからと言うて、「今日の御理解を忘れよう忘れよう」っち努めよったら、まあ私どもの場合はです、ね。それこそ何もならんことになりますから、ね。やっぱ本気で、とにかく私が、「生命で聴聞しておるか」と。ね。
ならば例えば、二十分、三十分のお話は、もうそのまま覚えられるくらいの努力が、まずなされなければならんということであります。ね。で、それに努める精進をさして頂くということ。そのような、私は、繰り返し繰り返しがです、ね。無心になる。白紙になられる。そういう苦心が重ねられて始めて、いわゆる無心。いわゆる信心の薫が漂うような、徳の薫が漂うようなおかげを頂く(?)をできるというふうに思います。
今日はもう、白紙についてですね、たいへん難しいことですけれども、そんな事を聞いて頂きましたですね。どうぞ。
明渡 孝